釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の仏教のあり方を遺言的に説かれている『大般涅槃経』、いわゆる『涅槃経』ですが、上座部(小乗)編集の『大般涅槃経』と大乗編集の『大般涅槃経』の二種類があります。その中に仏滅後に仏法を正しく後世に弘めていく為にお釈迦さまが遺言的に説かれた〝四依品〟があります。

この二種の『涅槃経』が存在する事を知らない上座部の方が結構おられまして、「涅槃経は大乗の経典でしょ」などと平気で申されたりします。

また、知っておられても「大乗と上座部とでは〝四依品〟の内容が微妙に異なっています」などと言われたりして、頑なに〝四依の教え〟を否定されます。なぜかと申しますと自分達の主張にとってまずいことがそこには記されているからです。(ちなみに龍樹の大智度論の中にも以下の記述がありますのでここでの主張の正当性も無くなります)

その〝四依の教え〟の内容は、「法四依と人四依」とからなります。まず法四依は、

①依法不依人。(法に依りて人に依らざれ)
②依義不依語。(義に依りて語に依らざれ)
③依智不依識。(智に依りて識に依らざれ)
④依了義經不依不了義經。(了義経に依りて不了義経に依らざれ)

の四項で、上座部のパーリ語経典では、長部第16経、漢訳としては、『長阿含経』に記されております。現代語に訳しますと次のような内容になります。

仏の教えそのものを依りどころとして、教えを説く人に依ってはならない。
教えの真義に従い、表面上の言葉・文章に依ってはならない。
仏の智慧に依って、凡夫の知識に依ってはならない
究極の真理を説いた了義経に依って、不完全なる真理を説く不了義経に依ってはならない

②~④の項目が〝仏の言葉〟つまり「パーリ語にもとづいた仏の言葉」を主張する上座部にとっては都合が悪いでけです。執着から離れることを修行の目的としている上座部の人達が、パーリ語という言葉に大変執着しておられる訳です。

次に人四依ですが、これは仏滅後に仏法を正しく語り継ぐ〝四種人〟が現れるといった予言です。この〝四種人〟の解釈はいくつかありまして、大乗ではこの四種人を十地によって振り分けたりします。

①歓喜地(初地)の前にある菩薩
②初地から五地にある菩薩
③六地あるいは七地にある菩薩
④八地から十地にある菩薩

十地は大乗編集の『華厳経』の中の十地品で説かれている内容ですが、その十地品は原始仏典(上座部の仏典)の十地経で説かれている内容を十地品として大乗時代に『華厳経』に組み込まれたものなので、十地は上座部から否定されるべき内容でもないと思います。

この〝四種人〟を仏滅後、仏教を正しくひも解いていった人物でみてみるとその意味するところが明確に顕われてきます。

まず、空をひも解いた龍樹。次に唯識(三界唯心)をひも解いた世親。そして三身即一をひも解いた天台智顗。そして最後の一人が法華経の開会で示された三乗を一仏乗の教えとして顕した日蓮ということになるかと思います。

大乗仏教が起きて沢山の大乗の宗派が立ち上がっていきましたが、その殆どの大乗宗派がお釈迦さまが示された「永遠性の否定」をくつがえし、永遠不滅の絶対的対境としての〝仏〟を説いております。しかしその中にあって日蓮ただ一人、そういった大乗各派が説く永遠不滅の仏を破折して法華経で説かれる無始無終の真如(真理)を〝仏〟ではなく〝真如〟の側面から説き顕しました。

それが究極の真如の法門である〝事の一念三千〟です。

続く

momo