仏教ではよく〝外道〟と言う言葉を使いますが、物事を「有る無し」の二元論で語る者達を指していう言葉です。日蓮聖人の御書の中に『一代聖教大意』というのがありまして、

外道に三人あり、
一には仏法外の外道 九十五種の外道、 
二には学仏法成の外道 小乗、 
三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり
 
と、外道に三種あることを述べられております。一番目の仏法外の外道は内道を説かない外道という意味で、内道とは心の世界、即ち〝主観〟であり対して物事を〝客観的〟に捉えるモノの見方を外道と言います。物理や科学、医学や数学など世の中の学識はおおよそこの〝客観〟という立場で万人に共通するモノの見方、捉え方を〝概念〟として集大成したものです。

〝主観〟で感じた事を言葉で表現する文学はどうでしょう。一見主観の世界のように思えますが実はその言葉自体が客観性で成り立っております。例えばあなたが食べたリンゴの「おいしい」を誰かに伝えようとした場合、「甘くておいしい」とか「よく熟してておいしい」といった共通認識語の言葉でしか表現出来ません。しかし実際には個々人は各々に感性が異なりますのであなたの「おいしい」と誰かの「おいしい」とは同じ「おいしい」でも微妙に異なってきます。〝主観〟は、それを誰かに伝えようと言葉に置き換えた時点で〝客観〟に変わります。

このような世間一般の学識に概ね九十五種類の外道の見方捉え方があるというのが一番目の「九十五種の外道」です。

二番目の「学仏法の外道」とは仏法を学んでも尚外道(実体思想)から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことを言います。 お釈迦様は、〝我有り〟を説く外道に対し縁起をもって〝無我〟を説きます。常に流動的に変化し続ける世の中において、変わらずにあり続ける永遠不滅の存在はあり得ないとして「モノの有る無し」や「生命の断見・常見」を外道義として破折されました。

しかし、この小乗で説かれた〝縁起〟は、仏門に入りながらも未だ実体思想が強かった〝声聞〟という境涯の弟子達に対して、実体に即した因果律にもとづいて説かれた〝此縁性縁起〟であった為、彼らは「肉体(因)があるから煩悩(果)が生じる」といった「モノの有る無し」の思考(実体思想)で縁起を起こし、「身も心もともに滅する」といった色心俱滅の過酷な修行を小乗仏教の中で展開します。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。

三番目の「附仏法の外道」とは、空を人空(無我)でしか理解出来ずに灰身滅智に陥った小乗とは違い、法空で空観に入って大乗を展開していった阿羅漢達の中にも外道がいるというのですが、それがどういう外道なのか詳しくお話していきます。

お釈迦さまは縁起を説くことで永遠不滅の存在を完全否定された訳ですが、大乗ではこれをひっくり返して「永遠不滅の仏」を説きます。これはお釈迦さまが究極の処では仏は生じることも無く、滅することも無い、いわゆる不生不滅の〝無始無終〟の存在であるといったことに由来する考えなのですが、この考えが外道にあたると日蓮聖人は言われております。『十法界事』という御書にそのことが詳しく述べられていますので紹介します。

「大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや」

これは大乗の別教の中で説かれている厭離断九の仏について述べられている箇所ですが、大乗において菩薩となった修行者が、仏界の一理に進む為に三惑を断尽して変易の生から離れてた寂光土に転生することで仏となります。しかしこの場合、九界を滅する訳ですから断見であり九界から離れた仏界へ転生する訳ですからそこにおける永遠不滅の仏界は常見となると仰せになられています。

先の『別相の巻』で紹介しました阿弥陀佛がこれにあたります。

続く